る吉田大門

大震災の数日後、日本の東北の気仙沼市で救援活動をするために東京を出発しました。これは彼の個人的な物語です。

私は、数日間、気仙沼市に留まりました。私は自分の仕事を休み、長期間被災地に留まるボランティア・ミニスターになりました。

震災後の荒廃がどんなに広範囲であるかを見てショックを受けました。

海沿いの地域は完全に破壊されていました。私は地図を持っていましたが、全く役に立たず、地図でガソリンスタンドがあるところには、何もありませんでした。私は歩いている地元の人にある場所を尋ねました。「うどん食堂だったらしい場所を通り過ぎると、郵便局だったらしいものが見えてくるから、その角を曲がって…」

つまり、そこは完全に破壊されていました。

私は、小さなトラックに必需品を大量に積んで、運転して行きました。

私はとても不安でした。というのも、道に大きな穴が開いていたり、破壊されていたりして、安全に運転できるかどうかわからなかったからです。

私は気仙沼市に着き、被災した家々へと向かいました。ライフラインが断たれた後でも、自分の家に残っている人たちがいました。

そんな人たちに必要なものはそれぞれ異なりました。水のペットボトルを欲しがる人や、缶詰、トイレット・ペーパー、お年寄りのおむつを欲しがる人々がいました。私は、さまざまな必需品を運んできましたので、それらは役に立ちました。

助けを必要としている人たちを探しに、私はトラックを運転しました。

うつむきながら歩いている年配の女性を見付けました。

「おばさん、何が必要ですか?」と尋ね、必要なものを渡しました。

完全に破壊された家屋の横で、呆然と座っているお爺さんがいました。

「どうしましたか?」と尋ねると、「これを持っていないか?」と言って、首からぶら下げているラジオを指差しました。

「電池が無くなったんですか?」と聞くと、うなずきました。

そこで私はラジオに電池を入れました。地震の後から、ラジオもテレビも聞けなくなっていました。

「津波がまた襲ってくるのが怖い」と彼は言いました。

「ラジオが聞けないのでわからない。」

彼の家は、海から50メートルしか離れていません。しかし、そんな危険な場所であっても、そこから離れることができないようでした。

みんな、私たちの援助を喜んでくれました。泣いている人もいました。避難所にどうしても行けない約150人に必需品を渡しました。彼らは、自分たちをそれ以上に必要としている家を失いたくない人たちであり、誰もいなくなったら泥棒が入るかもしれないと心配する人たちでした。

多くの人たちがガソリンを求めていました。予備のガソリンは持って来ていませんでした。ある人はどうしてもと言うので、持っていたポンプで、私のミニトラックから5リッターを抜き取り、彼に渡しました。

私は、最初の1日半は必需品を渡し、その後の2日間は、避難所でアシストを与えました。

(アシストは、L. ロン ハバードが開発したサイエントロジーの技術です。それによって、怪我やストレス、ショックなど、トラウマとなる感情的、精神的な影響を緩和することができます。)

私からアシストを受けた人はみんな、本当に喜んでいました。「楽になった」や「本当にいい」などと、彼らは言いました。

80歳のおばあさんは、アシストの後、腕を回して「肩こりが治った!」と言いました。私も非常に嬉しくなりました。

ここは私たちの国です。

起こっていることに直面し、それに責任を取らなければならないと思います。人々を助けることができて、私は本当に幸せです。